ワンデイダイアリー

受験、数学、徒然と語ります。アラサーのおじさんがやってます。どうぞ、よしなに。

大学入学共通テストのオチとそこから見る日本人の教育観

 日本型社会主義とはよく言ったもので、我が国の本質が共産・共栄であり、一部の特権階級を決して許すことでないものであることは、国民皆が知るところであろう。

 堅苦しい出だしの始まりをしたところで、本質は何も変わらないが、これから行うのは、高大接続改革の目玉であった、大学入学共通テストの形骸化についての酷評である。

 結論から言えば次のようになった。

・英語技能検定の受験を必須としない

・国語と数学ⅠAでの記述型解答は実施しない

・英語筆記とリスニングの配点比率を1:1にするが、大学によって、配点比率を変えることもある

 

 

 さて、酷評を始める前に、なぜ、日本型社会主義の揶揄から始まったかを説明しよう。この国の本質は、社会主義であり国粋主義である。あるいは、社会主義でありながらその骨格を内政の充実に頼るのではなく、民族の誇りに頼っているといったところであろうか。

 このブログの読者の大半が、Fラン大というキーワードで検索をかけてヒットしたものを読んでいる人間であることを加味すれば、前段の表現は少々狙いすぎているような気もするので、もっと簡潔に箇条書きでまとめれば、

 現代日本人は、

・金持ちは許さない

・貧乏も許さない

・日本人として誇りを持とう

というスローガンのもと、

今の生活がずっと続くこと

を第一に考えているということである。

 

 今回の共通テスト改革の大幅な軌道修正はそれが原因である。もちろん、引き金となった行政府のそれこそ、思考力・表現力・判断力を疑うような発言があったことは非難されてしかるべきだが。

 例えば、英検の必須に対して、受験料と所得云々を根拠に否定する輩が非常に多いのが現状だ。

 前回のブログで書かせていただいたが、大学受験なんぞ、センター利用入試でさえ18000円~20000円が相場であり、一般受験に至っては、国立大でさえ20000円弱、私立大学は30000円前後が受験料の相場である。言うまでもないが、これらはすべて、1回の受験料であり、例えば、センター利用で2学科を同時に出願すれば40000円くらいが平気で飛んでいく。

 余談だが、受験料にいくらくらいかけるかが話題になることがあるが、基本的には、純粋な受験料だけで15万円ほどは見ておいた方がいい。ここに、滑り止め校の一時金の納付等があって、気づけば、行かない大学に払う分だけでも50万弱はかかるのが当たり前だ。そのほかに、実際に入学する大学に収める学費や生活費等が年間でかかってくる。

 だからこそ、英検にお金を払えない層などは、大学生活を営むことなどできないと考えるべきなのだが、ここで、先の日本社会のイデオロギーがでしゃばる。要するに、教育の機会は均等に与えられるべきであり、お金の有無により差別されるべきではないという正義の声が上がるのだ。

 この時点で突っ込みどころは多々あるのだが、いったんここから派生する正義の味方のとんでも論法をご紹介しよう。言うまでもないが、これが、数学や国語の入試改革を頓挫させたものの正体である。

 国語に記述⇒採点者基準が不明瞭⇒忖度で点数が変わる恐れ

 数学に記述⇒確かな学力が必要⇒学習塾に通える富裕層が有利になる

 

 ・・・冗談としか思えないほど稚拙な理論だが、正真正銘、これが共通テストの反駁である。さて、お気づきのことはないだろうか。

 そう、これらはすべて日本型社会主義の末路に他ならないのである。要するに、金持ちが有利にならないようにするような社会を作らなくてはいけない。という正義の下、共通テストという富裕者有利のテストは行ってはならないという論調なのだ。

 もっとも、このほかに内々に存在するものとして、文部科学省と企業の癒着が疑われるというものはあるのだが、それは置いておこう。

 

 さて、これより酷評を開始する。まずは、この話の大前提をこの時点でだれも話してはおらず、ゆえに、世論として多いのは、「振り回される受験生がかわいそう」や「センター試験をなくさないで」という場違い甚だしい見当違いな論調となっている。

 まずはそこから話をするのだが、入試改革はどうして必要なのかを理解しなくてはならない。たとえば、教育業界者なら知っていて当然の話だが、一般入試で入学した学生と推薦・AO入試で入学した学生の内定率はどちらが高いかご存じだろうか。

https://www.mynavi.jp/news/2013/10/_2014.html

 外部リンク先を熟読してほしいが、この場では結論を述べれば、圧倒的に一般入試のほうが上である。理由は言うまでもなく、AO・推薦入試組は学力が低いからだ。

 では、この学力の低さを解決するためにはどうすればよいかというと、もちろん最良の一手はAO・推薦をなくせばいい、と私のような暴論主義は言いたくなるところだが、それこそ、受験生もその親も高校も大学も望むところではないことは、言わずもがなである。

 なぜ大学も?と思われる方は目ざとい。大学としては、AO推薦は、青田買いそのものであり、一般入試を待たずして学生を確保するための最良の方法なのである。有名私立大学ならまだしも、地方の地域密着型私大などは、こうして集めた生徒の学費が生命線だったりする。

 ゆえに、AO・推薦入試を廃止することはできない。ともすれば、次に考えられるのは、AO・推薦組にも試験を必須にすることである。これが、今回の高大接続改革の一つの目玉でありながら、誰も触れていないもう一つのテスト、

高校生のための学びの基礎診断

である。そう、入試改革として、高校生は毎年1回テストを受け、その結果を大学側が確認できるような仕組みになっているのだ。

 初耳?それがこのブログ読者の現状である。要するに、周りで騒がれている部分にしか目がいかず、ググってすぐ出てくる文科省HPすらまともに読んだことがないのである。いやいや、読者批判ではない。その状態が日本人の正常であることへの揶揄である。

 日本型社会主義の根幹をなすのは伝統と文化である。すなわち、日本人らしくあることを旨とし、他国人らしくはしない。私のように、世間に広がるあらゆる話を根掘り葉掘りし、エビデンスを求め続け、揚げ足取りをし続けるさまは、どちらかというと欧米よりの思想なのである。

 閑話休題。結局、そちらは基礎診断で受けられるので、共通テストは別に受けなくても、という論調になるところだが、実はこの基礎診断のほうが厄介で、こちらは露骨に教育関連業界が作っている模試のことなのである。 それこそ「ベネッ〇」とか「Z〇」とかである。

 つまり、その模試を受けなければ、AO・推薦が受けられないというのが、高大接続改革の検討材料の一つだったりもする。これこそ、正義の味方の皆さんの出番だと思うのだがなぁ・・・。無知とは恐ろしいものである。

 以上のような点から、何が言いたいかというと、

・大学生(大学を受験する高校生)の学力を上げたい

・全員が受けるなにがしかの試験が欲しい

という、幼稚極まりないまとめが完成する。

 さらにここで、稚拙を重ねる論理として、

・英語は大切

というものが加わる。

 お気づきの方もいるだろう。そう、これが英語技能検定である。誰でも受けられる英語の試験であり、ぴったりと考えるのも納得できる。しかし、これではあまりにも稚拙すぎるので、エビデンス(証拠)として突然持ち出したのが、CEFRである。

 「ヨーロッパでは当たり前」という官僚が好きそうな論調でこれを持ち出し、「日本も後れを取るわけにはいかないぞ」という論調を作りたかったのだろうが。

 そう、日本は、エセ社会主義でありながらエセ国粋主義である。似非(エセ)とはよく言ったもので、本来の国粋主義ならば、他国に劣るところを見つけ次第すぐにマウント合戦に移行するのだが、日本人は江戸時代から精神発達レベルが変わらない民族なので、「よそはよそ、うちはうち」という結論で納めたがってしまう。

 これが、英語技能検定が否定されたわけで、イデオロギーとして以上のようなものがありながら、国民的には、貧民の救済という何ともご立派な大義のみが残ってしまっているわけだ。

 ちなみに、数学国語の試験改革は何かというと、大学生にかけている力の本質部分であり、大学生は数学と国語、そして英語ができない人間であることの暗喩なのである。したらば、何ができるのかという話をしてはいけない。

 

 ここまで読んでいただいた読者なら、現状の課題と、それを解決するために共通テストなるものを作ったことがわかっていただけたかと思う。

 ところが、それらが否定に否定をされ続けたわけだから、共通テストで問うはずだった、あるいはそのために高校生に身につけさせたかった学力は身につくはずもない。

 と、言うことは、この改革は失敗に終わる。

という安易な結論を出してはいけない。実は、この改革と、この論調にはある重大な見落としがあるのである。いや、世論、ないしは、それを操作する政治やメディアがあえて見落としているという方が正確かもしれない。

 次回のブログのテーマは、共通テスト改革が頓挫したことで得をするのはだれか

にしてみようと考えている。